2017年5月27日土曜日

サクラダファミリア

サクラダファミリア (Sagrada Família, 1882-2026予定、ガウディーは1883から)

言わずとしれた100年過ぎて今なお工事中のアントニオ・ガウディーの建築。2014年に見学しました。
ガウディーの設計構想を推測しながら、現代の設計テクノロジー、バリバリのRC構造を採用しながら工事がすすめられています。18本の塔の内、完成しているのは4本。本当に全部建てるのでしょうか?

外もいいですが、内部は狂ってます。
胎内に入り込むと、大の大人がおとぎの国ではしゃいでもいいような圧倒的なスケール、包容力に、思考の前に力を抜かされます。技術的にも、美的にもガウディーという圧倒的な力がゴーを出せるところまで突き詰められたゆえの、万人に安心して休ませる力でしょう。

この列柱は何者も並び称されるもののない異能の世界です。
ガウディーがコロニア・グエル教会の形状決定にあたって行った実験模型。建物の重量分の錘を作用位置にぶら下げて形状を確定し、この模型を上下反転すれば、ひもで表されている構造部材に入る水平力を取り除き、全ての力を使用材料の軸力として作用させることが出来る。
2次元なら手で(今ならエクセルで)解けてしまいますが、3次元でこれだけ格点があると、曲げに対して耐力のない石造では、検算の手法がないと恐くて建てられなかったと思います。後のイスラーやキャンデラのRCシェル、日本の初期のアーチ橋梁なども全橋模型で丁寧な耐力試験が行われていました。
サクラダファミリアの実際の柱は、非常に横方向の支持材が少なく、軸力で処理された無駄のない理想的な骨組み形状であることが分かります。
大型模型。スペイン内戦で壊される前のものと思います。

見るしかないでしょう。

見学は時間ごとに入場人数が決まっています。ネットで事前予約は必須と考えた方がいいです。同じバルセロナ市内のカサ・バトリョ、カサ・ミラもチケット購入の列が長く、予約がおすすめです。

スペインの予約では、スペイン国鉄renfeも予定が決められないなんて言わないで、ある程度のリスクをしょってE-ticketを購入しておくと、時間に余裕がなくても列車に乗れる状況があります。一度、20分前に駅についても、チケット売り場に並ぶ列が長く、まったく間に合う気配がなかったことがありました。それに事前購入は安いです。
Renfeの予約サイトは3つめの予約になると、カードを受け付けてくれなくなるという持病があるようで、私はpaypalなど別の手を使ってもなるべく予約していきました。

2017年5月25日木曜日

パリのボウストリングアーチ、ソルフェリーノ橋

パリのボウストリングアーチ、ソルフェリーノ橋 (Pont de Solférino, 2000, Lc=106m)

パリのオルセー美術館とチェイルリー公園を結ぶ歩道橋。現在の橋は三代目。最初の橋は1859年に架けられ、約100年後の1961年に鋼部材の腐食により架け替えられました。その後、仮橋を経て、現在の橋が設計コンペにより選ばれました。
今の正式名称はレオポール・セダール・サンゴール橋。

設計はマーク・ミムラム。

橋が架けられた頃に、このような浅いライズのアーチ橋にあこがれ、いつか見たいと思っていた橋でした。やっと見れたときには、ウッドデッキがすでに補修時期にさしかかった16年後になっていました。。
ライズ比1/15。通常は1/5-7程度なので、非常に浅く、美しさと引き替えにアーチリブの水平力は大きいはずです。
オルセー美術館の前にかかる。左のお兄さんは鍵売り。マジックも貸しています。公認?

景観上、軽快であり、視線を遮らないように計画されており、V字の鉛直材、メッシュの高欄、ウェブまで透過型にしたフィーレンデール型のアーチリブなど、全体に透過性の高い形態となっています。

断面形状が鋼構造ぽくないですが、そもそも鋳物で製作することが意図されていたそうです。V字ストラットの断面は曲線、アーチリブの構成断面は複雑な面取りがされています。このくらいの装飾をしないとおそらくセーヌ川の他の橋とバランスが取れないと思われます。
結果的には鋼板の溶接構造になっています。
色や材料感は、シモーヌドボーボワール橋同様に、旧来の重厚な低ライズアーチと共通しており、今どきの橋でありながら浮いた違和感を感じさせません。

鉛直材は、デザインコンセプトに基づき透過空間を確保するために、橋の中央に行くほど間隔が広くなっています。端部に行くほど鉛直材にかかる水平力が大きくなるので、構造的にも理にかなっています。
V字ストラットの下端は一般部は剛結ですが、もっとも基礎寄りの側径間の桁による鉛直力が大きい鉛直材は、断面が大きく、その基部は、温度変化などによる曲げモーメントが伝達されないようにピン構造となっています。
アーチリブはライズが浅いため、軸圧縮力も曲げモーメントも大きい。特に下側の圧縮力が強く、140mmの極厚板が使われています。アーチリブは2本のアーチを1組として、2面のアーチで構成されています。中央に向かって2本のリブの間隔が開くことは、歩道幅員への幾何学的な対応とともに、座屈耐力の向上も配慮されていると思われます。

アーチリブの高さは、端部で1250mm、中央部で550mmまで絞っています。橋の中央にダンパーの箱が見えます。この橋もロンドンのミレニアムブリッジのように開通後に揺れて一時閉鎖し対策が採られました。
高欄のメッシュは鍵をたくさん付けてくれと言わんばかりなデザインとなってしまった。

大きな水平力が作用するアンカレイジの寸法は、ある文献では15m x 15m x 18mと書かれており、それほど深い支持地盤ではなさそうです。
設計中に下路の歩道は勾配がきつくて車いすが通れないなど問題はあったようです。薄い階段になっています。
床版の床組も単純なI断面ではなく、下フランジはゆるやかな曲線にデザインされています。世界の一等地なので、このくらいのこだわりはいいでしょう。
そろそろ大規模補修の時期ですね。ウッドデッキはこの覚悟が必要。

トルコのドーム(その1)アヤソフィア、スレイマニエジャーミー、セミリエジャーミー

イスタンブール、ビザンチンのドームとオスマン帝国のドーム

以前訪ねたトルコの3つの壮大なドームをもつモスク(トルコ語でジャーミーCamii)、イスタンブールのアヤソフィア、スレイマニエジャーミーと、エデルネのセミリエジャーミーを整理したいと思います。

いずれも約30mのメインドームを中心に、それに連なるアーチとドームで遮るもののない50-70m角の大空間を石造で形成する驚異的な建築物です。

それぞれ似た雰囲気ですが、アヤソフィアは他のものより1000年前、セミリエジャーミーのドームの支持は8角形と成り立ちも形状も個性的です。

 イスタンブールのアヤソフィア(563年、ドーム径約31m、主ドームの高さ56m)
アヤソフィアは東ローマ帝国のキリスト教の大聖堂を起源としてビザンチン建築の最高傑作といわれています。その後、15世紀にオスマン帝国によりモスクとして改築されました。
現在は、トルコ建国の父、ムスタファ・ケマル・アタチュルクにより世俗化され、宗教行為が排除された博物館となっています。

現在のドームは聖堂としては三代目で、360年の一代目、416年の二代目の聖堂は木造で焼け落ちてしまいました。現在の三代目の石造ドーム建築は、アンテミウスとイシドロスの設計。
中央の主ドームと奥の半ドーム、さらに奥に小半ドーム。
光を取り入れる40個の窓がよりドームを軽やかに感じさせる。

主ドーム33mは、4本の柱の上に乗っています。4本の柱に円形のドームを載せるために、4本の支柱の上に大アーチを設け、その上に、球面三角形のペンディティブという構造でドームを支えています。
大アーチにより、4本の主柱に作用する水平力は、側廊の空間の二重アーチが、大アーチのバットレスとして水平力を支持している。また、軸方向は、大ドームの空間をさらに半ドームで拡げている。
中央のドームそのものは31mですが、半ドームや、バットレスにより広がりをもたされた空間は一辺約70mのほぼ正方形におよびます。

このように、あとから見て構造は理解できたとしても、そもそも、礼拝堂の4角形の4本柱の上に、丸いパンテオン級の大ドームを乗せようと考えたところが、想像をはるかに超えた発想です。

ドームは、モルタルの径時変化により、南北方向が2m長くなり、557年の地震で亀裂が入り、558年に崩落。562年に再建されました。その後も地震国のトルコでは、989年に西側の1/3が、1346年には盗難の1/2が崩落したそうです。(参考、飯島英夫著、トルコ・イスラム建築)
ドームを支える巨大な柱

キリスト教のマリア像とカザスケル・ムスタファ・エフェンディによって書かれたカリグラフィーが同居する。

3つのジャーミーの中で、ひときわ華やかな装飾が目を引きますが、イスラム教は偶像崇拝を禁止しているので、モスクとして使用されている間は、壁面を漆喰で覆われてキリスト教の壁画は隠されていたそうです。
1934年にアヤソフィアが博物館として生まれ変わった時、その漆喰が取り除かれ、今のようにキリスト教絵画が美しく姿を現したものです。

ミマール・シナン(Mimar Sinan、1489年 - 1588年)のドーム

スレイマニエ・ジャーミー(1557年, ドーム径27.5m)
オスマン帝国の技術者ミマール・シナンが、スレイマン1世の命で設計したジャーミー。アヤソフィアから1000年経っています。金角湾から丘の上に見えるよく目立つジャーミーです。

ドームを支える構造は、アヤソフィアと基本的には同じで、4本柱の上に27.5mの主ドームが乗せられ、半ドームと側廊のバットレスで、4本の主柱に作用する主ドームの水平力を支持するとともに、幅58m、奥行き57.5mの大空間を遮ることなく形成しています。

アヤソフィアから約1000年後に、まずは、アヤソフィアの技術に追いついて、次のセミリエジャーミーで独自の構造を披露したという流れかもしれません。
実構造物の限界がどの辺にあるかを知ることは、計算だけではなく実験、さらに、経験や直感によるところが大きいので、実構造物で安全性を確認しながら、新しい構造にステップアップしていくような技術者らしい慎重さが感じられます。
中央のドームと奥の半ドーム。
4本柱のひとつ。大アーチと柱の境目に、外側に働く水平力を支持するアーチがあり、この下がまた広い側廊となっている。
半ドームの下の空間。4本の主柱以外は柱が細く、また、天井が高いので空間が遮られず広く感じられる。
場所はガラタ橋のたもと、アジア側からの船着き場でもあるエミノミュから、エジプシャンバザールを通り抜けて、坂を登っていくと、大きなジャーミーにあたります。
広場。こちらは観光ルートのど真ん中にあるアヤソフィアとは違って、坂道を少しあるかなければならないこともあり、観光客の数は比較的少ないです。
向いのハマム(サウナ)にもミナール・シナンの名前があります。
スレイマニエジャーミーからシナンのハマムの屋根越しに金角湾、ボスポラス海峡を望む。奥にうっすら見える第一ボスポラス大橋は、エルドアン大統領により改名され、クーデターのあった日付をとり「7月15日殉教者橋」と政治色の強い正式名となっています。
ジャーミーからガラタ橋と反対側に歩いていくとローマ時代378年のヴァレンス水道橋にあたる。

セミリエ・ジャーミー(1574年、ドーム径32m)
スレイマン1世はスレイマニエジャーミーの完成を見ることなく死去した。その後のオスマン帝国のセリム2世がエデルネにモスク建設をシナンに命じたのがセミリエ・ジャーミーです。シナンはすでに80才。
ドームを支える構造は、これまでの4本柱から、8本柱となりました。柱の本数が増えることで荷重の分散が図られています。
大ドームは上の2つのジャーミーの4本柱と異なり8本の柱で支えられている。
ドームの縁やアーチの間に多くの窓が開けられており、自然光が入る。
角の小ドームや半ドーム、柱を外側から支えるバットレスによりドームよりさらに広い空間が確保されている。柱と、大アーチの境目に柱頭の区切りが無く、これも空間が広く感じられる一つの要因。

シナンは、セミリエ・ジャーミーこそが自らの最高傑作であると認識していたといわれますが、ドームの大きさがアヤソフィアを(わずかに)超えただけでなく、構造も、イスラム建築はアヤソフィアの4本柱・前後の半ドームという構成から解放されたという意味もあると思われます。
ドームを支える柱。重量級だがこれまでのジャーミーに比べるとスレンダー。
この場所はもともとチューリップ畑だったそうで、この柱の一つに逆さチューリップが彫られており、参拝者はみんな写真をとっていました。

また、隣接する博物館では、国民的な尊敬を受けるシナンの説明や当時の筆記用具なども展示されています。
当時の筆記用具

エデルネの他のジャーミーなど

エデルネはオスマン帝国のイスタンブールを征服するまでの首都でした。また、第一次大戦のオスマントルコの敗北後、この地域はギリシャ領になりましたが、アタチュルク(ムスタファ・ケマル)を指導者としたトルコ革命で奪還した土地です。トルコの人は、オスマン帝国時代の都市に誇りを持っており、エデルネはトルコ人自慢の町です。
一方で、ギリシャからは苦々しい地域です。陸路でイスタンブールからアテネに行くバスが出ています(した)が、国境は幅の広い緩衝帯が設けられ非常に緊張感があります。
隣国というのは何かと難しい関係になる上に、度重なる侵略の歴史、しかも、宗教的にもムスリムとキリスト教の境目になります。両国民の感情は推して知るべしです。
アリパシャバザール。1565年。これもミナールシナンの建築。
エスキ・ジャーミー。1414年。セミリエジャーミーより160年前。4本の柱に支え9個の小さなドームが連続する構造。アーチ支間の割りに柱が太く、セミリエジャーミーに比べて礼拝堂の中の柱の存在感が大きい。
エスキ・ジャーミーの巨大なカリグラフィー
ユチュ・シェレフェリ・ジャーミィのドーム。1447年。セミリエジャーミーの130年前。ここは6本の柱で主ドームを支えています。天窓は控えめ。真ん中に青い魚がつかまってます。
6本柱という構造や、ドームや柱の装飾が30年前のエスキジャーミーから急にハイカラになっている。さらに、ここのミナレット(尖塔)はねじれた装飾で、当時相当とがったデザインだったのではないかと想像される。
メリチ橋。1847年。シナンは橋の設計も手がけているがこれはシナンではない。
エデルネへはイスタンブールの巨大なオトガル(バスセンター)から2時間半。ここは最大手バス会社METROの乗り場で118番線。エデルネのオトガルは郊外にあり、市内・セミリエジャーミーの隣まで無料サービスバスが走っています。時間はよく分からないので、その辺の人に聞いてうろうろしていると、そのうち小型のバスがバスを降りた周辺にやってきます。
バスはエデルネ行きは本数が多いので空いている可能性が高いですが、基本的にトルコの長距離バスはネットで予約した方がいいです。公共交通では、女性の隣に家族以外の男性は座らないので、予約サイトでも性別が表示されます。

→その2 トルコの3つのドームと世界のドーム