広島平和記念公園
広島平和記念公園 、原爆の子の塔(1958)
この塔に構造設計者としての矜持を認識させられたのは、その著作からでした。詳しくは
「川口衛、構造と感性、2015年9月」をご覧ください。
「川口衛、構造と感性、2015年9月」をご覧ください。
引用
「寿命の長いブロンズ製の像の台座として、それ相応の耐久性が必要であることはいうまでもない。設置後30年や50年で、クラックが入ったり、鉄筋の錆がしみだしてきたのでは、さまにならないからである。
きゃしゃな脚の塔を普通のコンクリート構造として施工したら、水の多い、しゃぶしゃぶのコンクリートを打たれてしまうことは、目に見えている。そこで、塔を縦に3等分し、各ピースを内面を上向きにして、工場でコンクリートを「平打ち」することにした。これなら、安心して固練りの密実な耐久性の高いコンクリートを打つことが出来る。これらのピースを組み立て、ジョイントの鉄筋を溶接し、接合部を固練りのモルタルで固めるという方法を考えた。
耐久性に関するもう一つの懸念は、足下からの水の「染み上がり」(毛細管現象)による劣化であった。これに対しては、ステンレスの鋳物の「沓」を履かせることで対応した。」
沓の写真へのリンク(川口衛構造設計事務所)
https://kawa-struc.com/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A1%94/?ref=langjp
この30年、50年先、ずっと生き続ける構造を想像し、形だけでなく経年後の姿を設計の要素として必須と考える姿が、本来インフラに関わる人間があたりまえのように持たなければならない技能ではないでしょうか。
近年でこそ、高速道路の更新などで初期の維持管理性の正当性が認められるようになりましたが、エンジニアはもともとこうした問題を知っているはずで、川口氏のように責任をもって構造設計に考えを取り入れる技術者が入ったプロジェクトは幸いであると思います。
いくつか見学していると、ひらめきが優れていてもファンになれない構造があります。
それは、数年で劣化したように見えるデザイン橋梁であったり、建築家さんが、完成時の写真をいかにきれいに撮るかに情熱を燃やしている姿を見るとなんだかなあと違和感を感じる瞬間であったりします。
川口氏の設計過程を読んで、そんなのあたりまえだ。と言ってくれたような気がしました。
平和記念資料館 (1955)
丹下健三、昭和24年36歳の設計コンペ。
柱の問題に唯一答えられた回答。
”柱”はどの橋でも必ずあり、意匠について様々な提案がなされています。多くは必要寸法に面取りやスリットを入れる、上端の横梁へのすりつけを工夫するのが標準的なアプローチで、どうしても付け焼き刃なアプローチから抜け出せません。
国内の土木業界では、施工の手間を最小=善が設計者にしみついており、わずかでも変わったことをしようものなら、型枠が、配筋が、と、設計を知らない者という目で見られることを覚悟しなければなりません。
施工が難しいことが耐久性につながることは事実ですが、程度がある話で、施工原理主義に陥っていないか、自信を持って判断するのも設計者の経験の積み重ねがなせる力だと感じるようになりました。
以前、溶接の疲労損傷の権威とされる先生が出席される場で、日本では架設ブロック間の継手を施工時間の短縮や精度確保のためにボルト継手が採用されることが多かった頃に、箱桁の外周を美観のために溶接で設計した橋を紹介したことがありました。このとき、先生から品質管理をすれば溶接の選択はいいと思うと言葉をかけられたことがあります。技術を知る人こそが固まった考えにとらわれないことを感じた時でした。
公共財ではない建築は別として、海外では、橋梁技術の進展が遅れた国や、美意識への追求が強い一部の欧州ではその制約は少ないように感じられますが、一方で、自由になったからといってそれほどデザインの幅がないのが柱です。
良い(悪くない。)ケースも景観を邪魔しないサイズを見出す、たとえば、桁の線の流れを阻害しないように極力細くする場合や、逆に大きく、ボリューム感で圧倒させることもあります。しかし、柱そのもののデザインが解を与えて感心したものは思い浮かびません。
この柱を除いて。
この丹下健三氏の柱は何千何万とある柱の中で、私の中で圧倒的な差を付けた解として存在しています。一本の柱として、コンクリートの素材を否定しないテクスチャとサイズ感、無機物にならない傾斜、あざとさが出ない曲線は、端部の断面積を減らしすぎず構造上に必要な有効断面を確保しながら柱ではない印象を与えている。
柱の群としては、正面から見たときに細く、ゲートとして見せる間隔。幅方向には涙型から矩形に移行する配置に違和感を感じさせない。
後で見返してもこれ以上の柱が世の中に作れるのかと、その感性と、おそらくここに至る試行修正の連続があることを想像し、世の中には届かないものがある気持ちにさせられます。
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